1882
10:26
母が出て行った後、数時間して、私も姉と同行した。
部屋に入ってその姿が見えた。
痰が絡み、何度か吸引してもらっていても、本当に苦しそうだった。
次々と親戚が着くと、個室に移り、全員で言葉をかけて見守っていた。
私は語るのが辛くてほとんど何も言えなかったと思う。
難聴であっても、返って来ない言葉がこんなにもつらいのだと、怖くて仕方なかった。
危ない状態が続いて、いついってしまうのか本当にわからない状況だった。
私は冷たい手足をさすることしかできなかった。
のちに最後の親戚が着いて、無事会えることができた。
その時は状態が落ち着いていて、皆ホッと一息ついた。
それでも私はずっと手足をさすっていると、そばにいる気がして安心できた。
でも一向に冷たさは変わらなくて、焦りもあった。
そうして時間を過ごしていると、何気なく母がまだ赤子の甥を抱っこして、彼女に触れさせた。
これでここにいる皆んなと挨拶ができたのだろう。
しばらくして脈が下がり、呼吸数も少なくなっていった。
わかっていた。
だから、最後にみんなでベッドを囲んで口々に言葉をかけていった。
そして親戚の1人が、強く、はっきり、語りかけていく言葉に私は胸をうたれながら、
同感と感謝の思いを持って、おくり出した。
その時私は、初めて彼女の涙をみたんだ。
その日の夜、私は仕事に向かい、疲れた夜は眠れなくて、母と献杯して、話をした。
明日は納棺。心を入れ替えて、またそばにいてあげよう。